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20260518

異様に朝早く起きてしまった。全身がだるいのに、二度寝もできなかった。こういう日は、寝床にとどまっていても消耗するだけだとわかっていたので、諦めてマクドナルドへ向かった。朝のマクドナルドはそれなりに人がいて、しかし席は空いていて、コーヒーを頼んでPCを開いた。しばらく読書した。メモを取りながら読み進めて、いつものように書けるかどうかもわからずに、しかしどこかで「もしかしたら今日は書けるのではないか」と微かに期待しているのもいつものことで、結局書けはしなかった。三時間ほど読書したところで店が混み始めたので引き上げた。

隣の客がフリック入力の音をうるさく立てていた。スマホの設定で消せるはずのものを、なぜわざわざ出しているのか、それとも消す方法を知らないのか、知っていてあえて出しているのか。タカ、タカ、タカ、と途切れることなく続いた。

たびたび日記に書いているが保坂和志『鉄の胡蝶は』に対する違和感が拭えない。とにかく過去のことを書きつづける保坂和志のこの書き方の意味を見失いはじめていた。それがどういう効果で、どういう意思のもとで書かれているのかがわからなくなってしまった。以前は保坂の問題意識に影響を受け、感化され、何か共有されている感じもあり、うまく追えていた気がするのだが、今ではよくわからない。本人は「これはノスタルジーとは違う」というようなことをくりかえし書いているようにも思う。それがそういう意思のもとに書かれているのはわかるのだが、いまいちその有効性も、ノスタルジーとの違いも、説明できないのだった。漠然とした反感があり、そもそもこれを批判する意味があるのかと思えた。批判の意義じたいを見失っているのと、特定の、というか保坂和志に対しての違和感を言葉にしていったいどうするのかという気持ちもあった。

帰宅し、ご飯を済ませ、爆睡した。気がついたら夕方になっていた。眠りに落ちる前は「少しだけ横になる」つもりだったはずなのに、目を覚ますと部屋の光がすっかり変わっていて、午後の時間がまるごと抜け落ちていた。

夜、切羽詰まった気持ちで本を読み、その流れのまま日記を書きはじめた。そのあと読書をまた挟んで、小説を書いた。書いた、と言っても、ほんの少しだ。それでも、書いた事実だけは残った。書けない日が続いたあとで、ほんの少しでも書ける夜が来る。連続性のなさ。昨日まで書けなかったのが嘘のように、今夜は手が動いた。逆に書けている時期にもある日突然書けなくなる夜が来る。そのときにもまたあほみたいに毎回驚く。創作というのはこういう自分のなかでさえ予測できない動きの上に成り立っているのだなと思う。いや少し違うか? 毎度やってくる感情を予測できない動きのように感じるのがあほのようだ。

小説でいま、やることはわかっている。しかし、それはAIが絡んでいて、「書く」そのものではない行為なので難しい。たとえばの話。文章のなかで変更したい箇所が見つかった。そこを指定して、原因を特定して、今後トーンを統一して均したい——なぜなら均さないと、AIの出力も本文に取り入れる場合、まるでとんちんかんな出力をされて手間が増えることがある——そのためには言語化してプロンプト化する必要がある。いったいこれは小説を書く人間の作業なのだろうかという感慨が起こる。いや、そうであって全然よいのだけど、こういう具体的なタスクを先へ引き伸ばす性格にある自分は、こういうのが苦手だったなと思い出した。

これが自力で書くとなったら、少しおかしな話かもしれないが(小説を書いているのに?)、わざわざ言語化をする必要は必ずしもない。文章を書いて配置したまま次にいって、また別のセクションを書いて、全体を見渡すときにじっくり考えて、……じっくり考える過程でも、オーダーを出すのは自分の脳のなかでなされるので、外向きの指示文を捻り出す必要がない。使う筋肉が違うのだ。AIと共作する小説には、執筆そのものに加えて、執筆を「翻訳して伝える」という工程がもう一段ある。その翻訳の手間が、書くこと自体とは別の疲労を呼んだ。これを引き受けられる人間と、そうでない人間がいる気がしている。自分は、まだ覚悟ができていない側だろうか。

サイトのフォントサイズを、スマホとPCで別々にした。こういうこともできるのか。AIに聞いてCSSをいじっているとけっこう楽しい。Bear Blogの管理画面を開いて、CSSをコピーして、保存して、スマホで見て、また戻って微調整して。

#日記