持ち主不在
※本作はClaude Opus 4.6を使用しています。
1
ビルの三階にあるその貸倉庫は二十四時間出入り自由をうたっていて、非常階段を上がると通路の両側にスチール製の扉が並んでいた。蛍光灯は一部切れていて通路に明暗の帯が交互に敷かれたようになっていた。午前二時を回っている。瀬尾は自分の区画であるC-12の前に立って鍵を差し込んだがシリンダーが噛み合わない感触だけが指先に返り、足元の床の継ぎ目のところに真鍮の鍵が一本落ちていて、握りに「4-307」の刻印があり表面には水垢とは異なる青緑色の酸化膜が浮いていた。瀬尾がそれを拾い上げたとき、隣のC-13の扉が数センチ開いているのが見えた。
隙間から覗くとスチール棚が一段だけ設置されていてその上に衣類が畳んで積んであった。白いシャツ、紺のスカート、薄手のカーディガン。清潔に畳まれていたがシャツの袖口が不自然に膨らんでいて布地の内側から何かに押し広げられるようにゆっくり形を変え、袖口の先から指が五本出た。肌の色は生きているそれで爪には透明なマニキュアが塗ってあり、指は開いたり閉じたりを繰り返して何かを掴もうとしているようにも何かを手放した直後のようにも見えた。
背後で非常階段のドアが開いてサンダルの擦過音がした。背の低い女が通路に入ってきて片手にコンビニのビニール袋、もう片方に発泡酒の缶を持っていた。缶の表面に結露がついていたが建物の中の空気は十月の深夜にしては冷えすぎていた。女はC-13の隙間を覗いて「出てるね、今日も」と言った。
「腕が出てるんですけど」
「うん。たまに出る。先月は脚だった。その前が帽子。帽子は誰のかわからなかったから今も棚に置いてある」
女は発泡酒を一口飲んでから扉の鉄板を指先で叩いた。中の腕は反応しなかった。女は缶をもう一度傾けてから瀬尾の手にある真鍮の鍵を見た。
「鍵、出たでしょう。あの団地の」
2
団地はビルから歩いて六分の距離にあった。五棟がコの字型に並んでいてすべての棟の通路の非常灯は点いていたが居室の窓はどこも暗く、女はC棟の外階段をサンダルの軽い音を立てて上がり四階の廊下に出た。通路にはドアが並び表札はすべて外されていたがドアの横の番号プレートだけは残っていた。女は306の前で立ち止まって「開けて」と言い、瀬尾が鍵を差し込むと何の抵抗もなく回った。
ドアを開けると靴を脱ぐ前に足裏が水に触れた。玄関のたたきに薄く水が張っていてそれは奥の部屋までつながっているらしく非常灯の緑がその水面に反射して天井に揺れる紋様を映していた。部屋のテーブルの上には封筒が置いてあった。表に「預かり番号4-307」と印字されていて中には銀色の鍵が入っていた。瀬尾がポケットの青緑色の鍵と並べてみると歯の形が違っていた。
冷蔵庫が唸り始めた。圧縮機の作動音ではなく冷蔵庫そのものが低周波で振動しているような音で、その振動が床の水面に同心円を広げテーブルの脚のあたりで飛沫が立った。冷蔵庫の扉が内側から押されるようにして数センチ開き隙間から白い光が漏れそれは庫内灯にしては明るすぎたが、瀬尾が手をかけて引くより前に扉はひとりでに閉まり、冷蔵庫は沈黙し、水面の同心円は壁際に達して消えた。
二人は部屋を出て鍵をかけ四階の通路を階段のほうへ戻った。途中、305のドアの下から水が廊下に染み出していた。304も同じだった。通路の排水口に向かって薄い水の流れができていてその中を絡まった長い髪の毛が一束ゆっくりと移動していった。女はそれを踏まないようにまたぎ、階段を下りた。
3
団地を出ると空気の質が変わっていた。さっきまでの冷気は消えていたがそのかわり空気のなかに柔軟剤の匂いが充満していてそれは特定のブランドの匂いではなく柔軟剤そのもののイメージが形づくる匂いとでも呼ぶべき合成された甘さで、道路の路面にはさっきまでなかったはずの私物が点々と散らばっていた。フォトアルバムがガードレールに開いたまま引っかかり、片方だけの運動靴が横断歩道の白線の上に置かれ、バスタオルが道路標識のポールに巻きつけてあった。
角を曲がるとコンビニの灯りがあって、店の前のガードパイプに男が一人腰を下ろしていた。裸足のまま両手で自分のスニーカーを抱えている。
「乾くのを待っている」
と男は瀬尾たちが何も聞かないうちに言った。「中がまだ濡れてて、このまま履くと足の形が靴じゃなくて水の形になる」
女はコンビニに入って二本目の発泡酒を買い、歩きながら開けた。泡が指のあいだを伝って地面に落ちその箇所のアスファルトが直径三センチほど窪んで小さな水たまりを作った。
「あの腕ですけど」
と瀬尾が聞くと女は缶を傾けたまま「うん」と言った。
「誰かが預けたものなんですか」
「引っ越した人が荷物を預けたまま来なくなるの。取りに来る人もいるけどほとんどは来ない。持ち物って持ち主の体を覚えてるから、長く置いておくと中身が生えてくる。腕とか脚とか。ただぜんぶ一時的なもので」
「一時的というのは」
「持ち主が忘れきったら消える」
風が吹いて路上のフォトアルバムの頁がめくれた。写真は一枚も貼られていなかったが台紙の粘着面にはまだ四角い跡が並んでいた。
4
ビルに戻ると非常階段の踊り場に水たまりができていた。さっきはなかったもので、階段の途中を伝って三階の通路にまで細い流れが続いていた。蛍光灯のうち切れていた二本目が点いていてそのかわり三本目が消えていた。
C-12の前に立ち瀬尾はもう一度自分の鍵を差した。回った。扉を引くと子供用のパジャマが一着、畳まれた状態で棚に置かれていた。青い生地に星の模様が入った上下のセットでサイズはおそらく四歳前後、まだ湿っていて、星の模様は蓄光素材でできているらしく蛍光灯の光を吸って薄い緑色に発光していた。左の胸ポケットに名札が縫い付けてあり名前は書かれていなかったが、ポケットの中に鍵が一本入っていた。三本目。二本目よりさらに小さくおもちゃのようだったが刻印の書体は最初の鍵と同じで「2-105」と打ってあった。
瀬尾は三本の鍵を棚に並べた。青緑色のいちばん古い鍵、封筒に入っていた銀色の鍵、パジャマから出てきた小さな鍵。三本とも歯の形が違っていた。隣のC-13を覗いた。扉は閉まっていた。隙間はなかった。
女は非常階段の踊り場で三本目の発泡酒を開けていた。
「自分の荷物が残ってると思った?」
「正直、はい」
「あれはもう別の持ち主のところに移ったから。この倉庫はそういう場所で、預けたものがそのまま返ってくるとは限らない。長く置いておくと持ち主が入れ替わることがあって、そうなると元には戻せない」
瀬尾はパジャマを棚に戻してC-12の扉を閉めた。鍵はかけなかった。
非常階段を下りて外に出ると空は東の端が白み始めていた。ビルの壁面に沿って三階の踊り場から伝ってきたらしい細い水の筋が地面まで降りていてアスファルトの継ぎ目を辿って歩道のほうへ伸びていた。瀬尾はポケットに手を入れた。鍵が三本、指のあいだで触れ合って小さく鳴った。まだ一つしか開けていない。
「鍵、あげますよ」
と、瀬尾は言った。
「いらない」
と、女は答えた。
瀬尾は鍵を渡したいがあまり強引に女に近づいて軽い取っ組み合いになったが、相手の身体に鍵を押し付けたあたりで女の平手が飛んできた。瀬尾は襲いかかったにも関わらずぶたれると思っていなかった。まずわざとらしくその場に倒れ込んでぶたれた方の頬を押さえて被害者みたいな哀しげな表情を浮かべた。女は瀬尾の顔面に蹴りを入れた。ぶ、と声を漏らし瀬尾は壁にへばりついてしばらく鼻血を出していた。女は発泡酒の残りを缶を傾けてそのまま床に全部捨てた。そうして彼女は階段を降りて行った。押しつけようとした鍵はどこかへ行った。探す気も起きず、瀬尾は何をしたらいいのかよくわからなかったので、使用した方の鍵を取り出して口に含んでしゃぶるのだった。そういうことしか思いつかなかった。