【AI日記】2026年5月7日から5月9日までの日記
なぜそんなことをするのかまったく意味不明だが、以下にAIに書かせた日記を貼る。
AIに書かせたと知って、そのテキストを読んでみようと思う人はほんとうに少ないだろう。とりわけ日記となるとわけがわからない。日記なんてとくに自分で書かないと意味がない。
このサイトに投稿する前から細々と、個人的に、マークダウンファイルに日記を書き続けていた。Claudeにそのプライベートな場で書き続けたマークダウンファイルを突っ込んで、直近のチャットも参照させた。このサイトの投稿は読み込ませていない。
Claude Opus 4.7を使用した。
2026/05/09
起きたのは10時を少し過ぎたあたりで、寝坊というほどではないが、もう少し早く起きるつもりだったのだ。連休明けはどうしてこうなるのか。窓を開けると、湿った空気が部屋に入ってきた。梅雨に入る前のこういう時期の朝の匂いは嫌いではない。
朝食は摂らず、コーヒーだけ淹れる。obsidianを立ち上げ、書きかけの章のファイルを開いたが、5分ほどで集中が逸れた。先週いじっていたbear blogのCSSの記憶が頭に残っていて、引用ブロックの余白がやはり気になり始め、cursorに移ってscssをいじる。気づくと一時間が経っていた。執筆のリハビリのつもりが、いつもこうだ。コードを書くというより、ただ画面上の隙間を調整しているだけの時間。これも執筆の準備に含めてよいのか、含めてはいけないのか。判断は保留しておく。
午後、家を出てモールへ。スターバックスはやや混んでいて、いつものカウンター席は空いていなかったので、奥のソファに座る。本を持ってきたのに、結局スマホでXとblueskyを行き来していた。タイムラインに、bear blogで日記を始めたという人のポストが流れてくる。最近こういうのをよく見かける。3月末に自分が感じた「ある種の流れ」は、勘違いではなかったらしい。あるいは、自分の観測範囲がそれに寄せられているだけかもしれない。どちらでもよい。
書見、ようやく開始。30分ほど。集中できたのはそのあいだだけだった。 夕刻、帰路の途中で空を見上げる。雲が低く、灰色のなかに薄いオレンジが滲んでいた。3月の白い月の話を日記に書いたあと、景色を書くことへの抵抗が少し薄れた気がする。書いてしまえばよかったのだ、ずっと。何かを書けるようにするためには、ただ書くしかない、というあたりまえの事実に毎回つまずく。
帰宅後、執筆。1時間ほど。進みはよくないが、穴を開けなかったのでよしとする。穴を開けるとそれが連鎖するのだ。3月の自分が日記に書いていた通りである。過去の自分の文章を読み返すと、たまにこうやって今の自分の背中を押してくれることがある。これは日記を書いていてよかったと思う数少ない瞬間だ。
2026/05/08
昼前、画面録画の文字起こしを試したくなって、WhisperのモデルについてClaudeに尋ねていた。smallというサイズが手頃らしい。実用にはなるが上限がある、というラインのものだ。「ちゃんと使える下限」という表現が頭に残った。下限という言葉が、なぜか自分の生活全般にしっくり来てしまった。下限で生きている。上限のことはあまり考えない。MacWhisperでは普段largeを使っているが、small.enという英語専用のモデルがあるらしいことを今日はじめて知った。
調べているうちに、本来やりたかったこと——文字起こしを実際にするということ——から完全に逸れていた。例によって、ツールについて調べることがツールを使うことの代替になってしまっている。これは何かの病で、しかも長期的にぜんぜん治らない。Cursorを立ち上げる前にCursorの設定をいじっているのと同じ構造である。
午後、MacのWi-Fiの調子が悪く、ログインのウィンドウが出てこなくなった。いつも通り出てくるはずのものが出てこないと、自分のなかの不安の閾値はあっけなく下がる。captive.apple.comを直接叩いて、ようやく接続できた。なんでもないことなのに、ほっとした。
夕刻、書見と執筆を少々。穴は開けず。
2026/05/07
押井守が自著に「どんな映画でもいいので、カット割や構成やレイアウトのみに集中して観てみるといい」と書いていたのを思い出した。音楽でも、普段聴かないジャンルの曲を構造のみに注目して聴けば、発見が山ほどある。これは小説でも成り立つはずだ、と長いことぐるぐる考えていた。
小説に置き換えるとどうなるか。意味を追わずに、文の長さと段落の切れ目だけを見る読み方。シーンと要約の比率、どこで切ってどう繋ぐか。押井のいう「カット割」にいちばん近いのは、たぶん段落の切れ目だ。「レイアウト」に対応するのは、ページ上の文字の配置——会話の改行ルール、空白行の使い方、視覚的なリズム。Sebaldの長い無段落の塊や、Barthelmeの断片の置き方は、まさに「内容より配置」を見ると別物に見えてくる類だと思う。
自分は普段、文の長短のリズムを意識しているつもりだったが、改めて言葉にされてみると、ほとんど無意識にやっていたのだとわかる。意識化されない技術は、本当に技術なのだろうか。それとも、意識化されないからこそ技術なのか。 日記でもそうだ。なぜこの段落でここに改行を入れるのか。なぜ今、句点を打つのか。理由は説明できないが、打たないと気持ち悪い。気持ち悪い、というのが基準である。書くことの大部分が、この種の生理的な反応によって支えられている。樋口恭介の『生活の印象』を何度も読み返してしまうのも、たぶん意味を追っているのではなく、段落と段落の切れ方や、「■」で区切られた断章の置き方そのものを浴びにいっているのだと思う。 夜、自分のいくつかの段落の切れ目を、ためしに別の位置に動かしてみた。一気に文章が下手になった。元に戻した。
感想
自分の文章をもとにしているから面白いのだろうか。AIに出力させた文章がわたしは嫌いではない。読むのが面白いから、ときどきやってみようかと思う。シリーズ化してみたい。感想のセクションを設けてなにか書こうかと思ったが、ただただ感心して読んでしまったというだけである。