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祈り

※本作はClaude Opus 4.7を使用しています。


 火曜日の夕方、わたしは駅前の広場でフランスパンを持って祈っている男を見た。
 正確に言うと、フランスパンを両手で持ち、その先を天空へ向けて、目を閉じている男だった。どう見てもそれは祈祷であった。人間が何かを祈っているかどうかは、見れば理解できる。鳩を見てもわからないが、人間を見ればわかる。わたしはそれが人間の唯一の取り柄なのであると思った。
 わたしは立ち止まった。男の横に、同じくらいの間隔をあけて腰をおろした。こういうとき、直接となりに着席するのは失礼に値するが、遠すぎると通報される。人間関係というのはむずかしい。
 男の祈りは長かった。鳩が足もとに集まってきて、うち一羽は片足で立っている。わたしはなんとなく、その片足の鳩も祈っているのだと思いこもうとした。
 やがて男は目を開けて、こう言った。
「もう少しだった」
「何がですか?」
「このパンが喋るところだった」
 わたしはうなずいた。こういう話には、うなずくに限る。反論すると長くなる。
「毎週火曜日に、ここで祈っているんです」
 と男は言った。
「フランスパンというのは、喋る直前の顔をしている。だから、あとひと押しなんですよ。あとひと押し」
 わたしはフランスパンを見た。たしかに、喋る直前の顔をしていた。表面に小さな亀裂があって、それが口のように見えた。片側の突起がなんとなく鼻のようにも見えた。わたしはこれまでフランスパンをそんなふうに見たことがなかったが、一度そう見えてしまうと、もう他の見方ができなくなった。
「もし喋ったら」
 とわたしは聞いた。
「何を話すと思いますか」
 男はしばらく黙って考えた。真剣に考えていた。眉間にしわを寄せて。
「小麦の気持ち、じゃないかと思うんです」
 と男は言った。
「小麦にしかわからないことが、あるはずだ。私たちはパンを食べすぎているから、小麦のことを何も知らない」
「なるほど」
 とわたしは言った。
「それは大事なことですね」
 わたしは言っていることを何も理解しなかったが、共感を示すことは大事なことに思われたので、そう返事しただけにすぎない。
「そう思うでしょう」
 男はうれしそうだった。世の中には、同意されるだけでうれしそうにする人間がいる。わたしはそういう人間が好きだ。議論をしたがる人間より、よほど世界の役に立っている。
「代わりましょうか」
 とわたしは言った。なぜそう言ったのか、自分でもわからない。夕陽のせいだと思う。
「いいんですか」
「少し祈ってみます」
 男は丁寧にパンを渡した。思ったより軽くて、思ったよりあたたかかった。わたしはそれを両手で立てて、空に向け、目を閉じた。
 何も祈ることがなかったので、とりあえず、小麦畑を想像した。風の吹く、黄色い畑。畑の端には、井戸があって、井戸のそばには、犬がいる。その犬はわたしのほうを見ていた。犬は尻尾を一度だけ振った。
 パンは喋らないし喋るはずはない。
 目を開けると、男は満足そうに立ち上がっていた。
「惜しかったですね」
 と男は言った。見ていたのか。
「惜しかったです」
 と言ったあとわたしは、
「また火曜日に来ます」
 と、男に告げた。
 男は会釈をして、コートのえりを立てて広場を出ていった。パンは置き去りにされたのでわたしは余計な荷物が増える羽目になった。
「持ち帰って、食べてください」
 と男は言った気がする。
「祈ったパンは、よく効きますから」
 というふうに言った気もする。
 わたしはベンチでしばらくパンを抱えていた。鳩がこちらを見ていた。片足の鳩も、両足になって見ていた。
 家に帰って、わたしは押しつけられたパンはなるべく非人道的な扱い方をもって(たとえば、尻の穴に入れるとか)、パンとしての役目を終えさせようと思ったが、そうするのも億劫だったし、なにより見知らぬ他人から手渡された食物ほど怖いものはないので、穏当に食べるという手段はまずありえなかった。どこかに遺棄するのもなあ、と思って、ためらわれた。押しつけられたものとはいえポイ捨てみたいになるのは嫌だし、通りかかった人にポイ捨て野郎と思われれるのが癪である。家のなかに保持しておくのも嫌であった。見える場所にあっても見えない場所にあっても、常にわたしの心を苛む要因になると思われた。その日のうちに、身近な失職者何人かを恫喝して家にこさせた。穏当な物言いだけで来てくれる人もいた。人というのは予定や気分というものがあるからなかなか快くとつぜんの誘いを受け入れることはない。駆け引きはめんどうだ。わたしに金を借りている人間もいた。四人、わたしの家に来た。わたしは料理をふるまった。そのとき例のフランスパンを輪切りにして主菜の横にそれとなく置いておいた。もちろんわたしは食べなかった。わたしに呼ばれた人間たちは訝しそうな表情で料理を口に運んだ。
「で、要件はなんなんだ? けっこう切羽詰まった感じだったけど」
「おれなんか怒鳴られたよ」
 わたしは微笑して、
「ああ、ゴメンゴメン。あまりに寂しかったものだから。ただふつうに家に来て欲しかっただけだったんだわ。それというのも恋人に振られてさ……」
 と嘘の話をはじめた。この四人には全員、架空の恋人の話をたまにしていた。話すことがあまりないからだ。そのうち一人、また一人と自分のパートナーの話をはじめ、惚気出したので、わたしは聞き役に徹した。惚気話を聞くのはわたしは好きだった。
 後日、話を聞くと、あの場にいた四人全員が家に帰って腹を下したそうだ。うちひとりは食中毒になって病院に運ばれた。腹下しの程度はトイレを2往復するぐらいで済んだ者もいれば、数日ゆるやかに続いた、と話す者もいた。でもみんな料理をふるまったわたしに対して気を遣っているようで、誰もわたしのせいにする人はいなかった。
 次の週の火曜日、あのフランスパンを渡した男が広場にいるのをまた見た。フランスパンを持って祈祷している。今度はあの四人のうちの一人をあの男に会わせてなにかさせようかなと思った。わたしは気づかれないように建物のかげに隠れ男のようすをながめつつ、そう思った。でもめんどうくさくてやんないかもな。

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