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鍵屋

 新町はショッピングモールで鍵師として働いていた。今年で六八歳だ。特別な年齢ではない。彼には娘がいた。舞台美術家だった。しかし食べていけなかったので、倉庫で仕分け作業のバイトをしていた。
 娘とはたんに疎遠になっていた。
 娘のことを忘れつつある。老いのせいではないはずだ、と新町は思った。ずっと会っていない友人も、だんだんとどんな顔だったかを忘れていく。そういう類のものだ。
 新町は子育てに積極的ではなかった。自分の娘ではあるけれど、他人事のような感じで娘のことを考えたり、見つめたりすることがあった。
 娘が大学を卒業したときに新町は離婚した。
 そのとき、娘がどうだったか、思い出せない。離婚は、計画的なものだったし、ずいぶん前からそうしようと決めていた。喧嘩が絶えなかったわけではなかったが、いっしょにいる理由がなにもなかった。であればおたがい、一人でいる方が楽だ。
 ある日、突然閉店間際に娘が店の前にやってきた。
 あまりにも急だったので、新町は驚きすぎて、咳込んだ。
 身体をくの字に曲げる父の姿を見て、
「ちょっと、大丈夫?」
 といいながら、手を差し伸べるが微妙に近づきすぎない距離感で、あたりを見回していた。
「なんでここに」
 と、新町はつっかえながらいった。
「鍵を直してほしいから来ただけだよ」
 と、娘はいった。
「翌日の公演で使う、古い長持の鍵が悪くなってるから、直してほしい」
 彼女は鍵を差し出した。
 鍵は黒ずんでいて、ギザギザの縁が丸くすり減っていた。根元には亀裂が入っていた。そんなに手間はかからないだろう、と新町は思った。
 鍵を修復している最中、モールの管理室から電話がかかってきた。
「はい」
「あ、すいません」
 短い沈黙。
「あー、二階の宝石店でですね、ショーケースの鍵がどれも合わなくなってしまって」
「はい」
「ちょっと鍵を直してもらいたくてですね、申し訳ないんですけど、閉店後に二階の方に寄ってもらえませんかね」
 面倒な用事ができた。なるべく機械的な返事を心がけてすぐに電話を切った。
 新町は修復した鍵を娘のもとへ持って行った。
 娘は礼をいい、
「このあと時間ある?」
 といった。
「寄らなきゃいけないところがある」
「用事?」
「そうだ」
「もう閉店だけど」
「宝石店に寄れといわれた」
 新町は言葉を短く切るようなしゃべり方だった。娘に対してそうする必要はなにもないわけだが、不思議とそうせざるをえないとも思った。
「宝石店?」
「二階の店だよ」
「あったっけ」
「あるよ。なんかジュエリーなんちゃらって店の名前」
「へえ」
 新町は、娘と二人で閉店後の宝石店で佇んでいる姿を想像した。
 二人ともショーケースをながめているのである。他人から見れば、物欲しそうにながめているように見えるはずだ。そんな光景を想像した。目の前に鮮明に浮かび上がってきたくらいだ。
 ただほかに見るものがないから見ている。そうして二人はそこで用もなく立って見ている。
 新町は、ぼんやりと考えていた。
 新町はどうでもいい空想をするのが好きだ。
 そんなことを考えているうちに、娘が目の前からいなくなっていた。
 新町は、あわてて作業部屋に戻った。
 鍵を渡し忘れてないか確認した。鍵はなかった。渡したのだ。作業した形跡があった。一瞬、自分の頭がおかしくなったのかと思った。
 そもそも、娘がここにきていない気がしてきた。鍵を直してくれとほんとうに頼まれていない気がした。極端に新町は焦り出した。LINEで娘の名前を検索して、メッセージをとばした。
 そのあと、宝石店に寄りショーケースの鍵を直した。さすがにすべての作業を終えたときにはメッセージがくるだろうと思っていたが、こなかった。娘のLINEがたしかに娘なのか心許なくなってきた。不躾にメッセージを送ったのもばつが悪かった。いや、娘がほんとうに存在しないなら、ばつが悪くなる必要はない。なにを考えているのだ。帰りの電車のなかで忘れよう忘れようと思ったが、いやな焦りがずっと新町のなかを走っていた。自分が狂っていることをいちばん認めたくないのは、自分が頑固だからか。そう頑固だからだ。そもそも何を考えているのかわからなかった。まず自分は、自分が狂っている可能性がよぎったわけだ。
 それはどこからだったっけ。最寄駅について、降りて、自動販売機で缶コーヒーを買った。たぶん、いつも買うジョージアのやつだ。狂っていて、何が問題があるのか、次はそれ考えなければならない。いつの間にかに缶コーヒーの飛沫がYシャツにとんでいてよごしていた。まず、順序立てて考えなければいけない。この不安をしずめるために。スマートフォンをまた確認する。時刻が表示されるだけである。
 電話がかかってきた。娘ではない。知らない電話番号からだ。
「もしもし」
 相手は甲高い声だった。調査会社の名前を名乗った。
「世論調査のご協力をお願いできないでしょうか」
「待ってくれ」
 と新町はいった。
「はい」
「待っててくれ」
「お忙しいですか? すぐに終わるのですが」
「そういうことじゃない。わかっているだろう」
「ええ」
「頭の整理がな、今特別にできていないんだ。滅多にないことなんだ」
「大丈夫ですか?」
「話に付き合ってくれ」
「大丈夫ですよ。わたしはこういうの慣れていますから」
「ほんとうか。今、わたしはなにを考えていたんだ? どこから考えればいいんだ? どこまで考えたか、しるしをつけておけばよかった。どこまで考えたか見失ったんだ」
「心配はないですよ。いずれ思い出しますから」
「そうか、それもそうだな」
「質問してもよろしいでしょうか」
「まだだ。ああ、やっと今、整理されてきた気がするんだ」
「質問してもよろしいでしょうか?」
「あと、もう少しだ」


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