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AI

AIが書いたものじゃなくて人間が書いたものを選びたいって発想がくだらねー、とXの投稿欄に書きこんで、ポストはせず、そのまま削除した。Blueskyが夕方、珍しくダウンしていた。それでXを見て、そのようなことを思った。正直言って作られたものがAIであったと知って、失望したり拒絶をしめす心情がいまいち理解できていない。人間がつくったものだって確証が、そんなに大事なのか? もちろん、どういう人物がどういう意思のもとでつくったのかという、制作者の実体を通して、読者とコミュニケーションが起こることは大事だろうけど。人間かAIかと敏感になってもしょうがないような。どこまでいってもわからないものだと思うし、こちら側からAIを拒絶しようとする動きがなんだか無意味でばかみたいなことのように思える。今この時代に自分で選んだものに対してどう意味付けしてどう身につけ発信していけばいいのか。面白いと思った何かが、AIでつくられたものであっても自信を持って愛着をもったりここがどうだとか言えばいいと思うんだけど。ここで、AIがつくりだしたものを批評するのは徒労なのかっていう議論はあるのかも。わたしにもまだよくわかっていない。 

AIで執筆しているとはいえ名前を出して発表している。AIで執筆した文章は見たくないと拒絶したとき、そこで制作者の意向は乱雑に無視されているように見える。思考や文体に一定の傾向やくせはありえるだろうけど(文体にいくら指示を与えて奇形的に崩そうとしても)、その手前で拒否してしまうのはどうなんだろう。制作者の実存や意向も絡めつつ、それを通してAIは今どのように書け、また出力の内容は変わるのか、わたしたちにどう影響を及ぼすのか、その作家自身にどう影響を及ぼし将来的にどうなっていくのかを考えたり話し合ってみてもいいんじゃないだろうか。AIがいま何ができるのかということと制作者の作家性についての二本柱。



愛している対象に実体がなかったとして、いや、もっと言えば愛している人に実体がなかったとして、それをばかにされたり、ぼんやりなにも考えない人らに嫌悪感を示されるほうがおぞましい。愛している何かに身体・身体性がないなんてことより。



ちょっと強い言葉で書きすぎたかもしれないけど。のちのち考えよう。じぶんも間違っているかも。



まーでもあれか、出力された文章を、まんま批判的意識もなしに「これこそ自分が書きたかったものだ、狙い通りのものが現れた」と誤認する可能性もあるのか。わたしたちが考えなしにAIの方に歩み寄りすぎることはあるのかもな。出力されるたびに狭められる選択肢をどう捉えるかだ。どう狭まるかをあまり言葉にできないし、しづらいことでもあるな。そして狭まることは悪いことではない。無限の広がりによって書くことに苦しんでいた人はたくさんいるだろうし。今まで書かなかった人も小説に触れるかもしれないし。ただそれがプロット以前に、文章そのものの次元で狭められてほんとうにいいのかという話だろうか。

#雑記